2008年

ーーー1/1ーーー 出会いに感謝

 今日は大晦日。今年一年を振り返ると、「出会いの年」だったという印象がある。

 モノを作って、それを自分で売る仕事だから、出会いがあるのは当然ではある。と言うより、新しい出会いが無ければ、仕事にならないとも言える、しかし、現実としては、簡単に良い出会いに恵まれるというわけではない。

 特に年齢が上がって来ると、新しい人間関係は作り難くなる。これまでの人生で、いろんなものが身の回りにくっ付いている。それが他人との距離を遠くする。そして気持ちの上でも、物事の裏を読んだり、決めつけたりすることが多くなり、他人と率直に接することが難しくなる。まことに残念ではあるが、それはどうしようもない事実である。 

 私もそんな年齢になったと思う。もともと私は理科系の人間で、あまり人間関係がマメな方ではなかった。それでもこの道に入ってからは、昔の知人から「変わった」と言われるくらい、気を使うようになった。そのように努力もした。しかし、年齢的なものは、こちらがどうあがこうと、相手側の見る目にも影響を与える。髪に白いものが混じった男に、きさくに付き合ってくれる人は、だんだん減少する傾向にあるのは否定できない。

 そんな状況の私だが、今年はビジネスの付き合いから一歩踏み込んだ出会いがあった。それは一つでも有ればラッキーと言えるのだが、今年はいくつも重なった。そのおかげで、自分がこの年齢にもなって、ちょっと進歩したように思う。そう感じられるのは、たいへん幸せな事だと思う。

 もうじき午前零時を迎える。我が家の初詣は、地元の有明山神社と決まっているが、新年はまた、盛り沢山の願い事になりそうだ。




ーーー1/8ーーー 年賀状雑感

 この正月は、例年どおり年賀状を出した。12月の25日には出し終えたので、全て元日に届いたと思う。パソコンや携帯メールの発達により、全国的に見て、年賀状は少なくなっていると聞いた。私の場合もそのような傾向が現れている。およそ160枚出したのだが、受け取ったのはその半数しかなかった。
 
 もらった年賀状は、それぞれ個性があって面白い。出来合いの図柄が印刷された、無味乾燥な年賀状もあるが、それも送り手の個性の一つと考えれば面白い。もっとも私の元へ来る年賀状の場合、そういうのが少ないから、個性とみなすことができるのだが。

 最近は、パソコンで編集し、印刷をしたと思われる年賀状も多い。家族の写真を配したもの、干支を図案化したもの、自然の風景や趣味の作品の画像を取り入れたものなど、それぞれに創意工夫が溢れている。パソコンで印刷された葉書は、言わば量産品だが、それに肉筆でひと言添えてあると、気持ちが伝わってくるようで嬉しい。

 さて、私自身はどうかというと、はるか昔は版画、それからプリントゴッコ、そして現在はパソコン印刷である。自分が思い描く通りに、そこそこ見映えの良いものが出来、しかも安価に上がるのだから、パソコン印刷の優位は圧倒的だと思う。仕事を奪われた街の印刷業者が、気の毒になるくらいである。

 ところで、私の年賀状はビジネスの目的が半分である。木工家としての私の存在を、年に一度でも良いから印象づけ、あるいは思い出してもらう手段として捉えている。

 そのような気持ちで作っている年賀状だから、少々事務的な印象を与えてしまっているのではないかと懸念する。そこで、せめて宛名は肉筆で書くことにしている。さらに、印刷面にひと言を添えれば良いのだが、それがなかなかできない。

 一人一人の相手に言葉を考えて書くような時間の余裕は無い。かといって、全ての人に同じく「お元気ですか」と書くのも、誠実さを欠くようで気が引ける。受け取る方は一枚だけだから、そんなことは意に介さないかも知れないが、それを160枚書く当方としては、ほとんど意味の無いことのように思えてしまって、気が進まないのである。

 そんなわけで、今年も事務的な印象が否定できない代物を届けてしまうこととなった。

 ところで、一年間を通じて、年賀状だけのお付き合いの人も多い。そんな方々からの葉書に、「いつもホームページを見ているので、会えないけれど身近に感じています」というような内容のメッセージを見つけることがある。これはまた嬉しいものである。




ーーー1/15ーーー おかしな記事

 先日書店で立ち読みをした。薪ストーブに関する本が有ったので、手に取って見た。その中に、薪を燃やすことは、地球の温暖化防止対策として好ましいという記事があった。そして、石油、石炭などの化石燃料と、薪との比較が表になって載っていた。それを見て驚いた。燃やすことで排出される二酸化炭素の量が、薪は化石燃料と比べて桁違いに少なく、ほとんどゼロに近い数値になっていたからである。

 薪だって炭素化合物なのだから、化石燃料と同じく、燃やせば二酸化炭素が出る。それが、ゼロとはどういうことか。

 疑問に感じて、本文を読んでみた。薪は燃やして二酸化炭素が出ても、森林がそれを吸収するから、差し引きで考えると、二酸化炭素の増加にならないとの論旨であった。

 ここに二つの問題点が指摘できる。

 まず、薪を燃やしても二酸化炭素の発生はゼロであるとした例の表。これは科学的に間違っている。燃やして出るものは、正直に出ると書くべきである。自らの主張を有利に展開するために、このような作為が行われたのだと思われるが、明らかに行き過ぎである。これは言わば詐欺師の手口である。

 二つ目は、薪を燃やして二酸化炭素が発生するということと、森林が二酸化炭素を吸収するということとの関係が不透明である。この本に書かれているのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な発想である。あるいは他力本願的な発想とも言える。そこには、人間社会と自然との関わりを、真摯に捉えようという姿勢が欠如している。

 木材を収穫することによって森林が破壊されるという現象は、ここ一世紀以上に渡って人類が直面している深刻な問題である。「私は薪を燃やしますが、森林は勝手に育って下さい」というような、くだんの本の記事のような、軽く楽観的な発想が、地球上から森林を失わせしめてきたのだ。

 私は薪ストーブがいけないと言っているのではない。また森林が、適切に人の手を加えることにより、再生できる資源であることも否定しない。数億年前の遺産のような化石燃料を利用するよりは、循環形の生態系である森林から得た薪を燃やす方が、人にとって持続可能な生活スタイルであることも真実であろう。ただ私は、地球の温暖化とか、人類の存亡とかいうような領域に踏み込む時、森林は人による収奪に耐えられるだろうか、という疑問と不安を抱くのである。

 仮に化石燃料を熱エネルギー源として使うのを止め、その代わりに木材を利用するとしたら、我が国の年間森林生産量では、国民全員の生活を維持することはできないだろう。つまり、森林が生む利息だけでは暮らしていけないということだ。それで元本に手を出したとして、何年くらいもつのだろうか。

 化石燃料の代わりに、森林資源に頼るような事態は、夢想的なことだと切り捨てるわけにはいかない。化石燃料は有限である。例えば石油の場合、底が見えるのは百年以内の、極めて近い将来だとされている。

 海外には、成長の早いある種の植物を育てて、それを燃やして主要な熱源に利用しようという、大掛かりな計画を実行している国もある。しかし、そのために生態系が崩れて、おかしなことになるという懸念も指摘されている。また、世界の一部地域では、穀物農家が一斉にバイオマス燃料の原料となる農作物へ転換したことで、食糧難となる兆しが見えている。

 結局は、地球上の限られたエネルギーを、どのように利用するかという問題に尽きる。それは、どのような手段で利用するかという試行錯誤を生み、ときに自然破壊を招き、一方で人間どうしの奪い合いの戦いを発生させる。

 それにしても、地球上で利用できる唯一永続的なエネルギー源である太陽光線は、60億の人類を生かし続けることができるだろうか。



ーーー1/22ーーー 文章を書く難しさ

 文章を書くという事は、簡単そうで難しい、不思議なものだと思う。毎週一回このコーナーを書くだけの私だが、何年もやっているうちに、文章表現の難しさというものが、だんだん身に染みてくるようになった。

 仕事などで使う業務文書であれば、紋切り型の表現で事足りるし、またその方が伝わり易いということもあるだろう。しかし、不特定の人を対象に、何かを感じてもらうことを目的に書く場合、つまり表現として文章を書く場合は、書き手の個性や感性が問われ、また表現の質やテクニックも要求されるので、なかなか難しくなる。

 ところが、そういう事を全く顧みないで書かれた文章が、際立って面白いこともある。そういう文章を書く人にとっては、書くことなど容易いことかも知れない。もっとも、そのような人が、普段とは違った目的の文章を書く事態になったら、とたんに悩んでしまうという事も、あり得ないことではないだろうが。

 思い出話になるが、ある会食の席に、文学者と中学生が同席したことがある。話題は自然な成り行きとして、文章を書くということに及んだ。

 その中学生は、小さい頃から文章を書くのが得意で、小学校のときはよく褒められたそうである。ところが、だんだん成長するに従って、評価が低くなってきた。つまり褒められなくなってしまったのである。中学生本人はその原因として、年齢が上がって知恵が付くと、大人に褒めてもらおうとする意図が生まれ、それが「受け狙い」として現れるから、却ってつまらない文章になってしまうのではないかとの意見を述べた。そのような分析ができるだけでも、なかなかのものだと思ったが、それは置いておこう。

 中学生は、文学者に向かって、小さかった頃のように、面白い文書を書いて評価されるためには、どうしたら良いかと問うた。

 文学者の答えは、「思いっきり大人に受ける文章を書くように努力することだ。それ以外に方法は無い。小さかった頃の純真無垢な自分には、もはや戻る事ができないからだ」であった。

 このエピソードは、自然な表現と、意図的な表現との関係を示唆していて面白いと思う。この中学生の成長過程を借りて述べるならば、小さかった頃は自然な表現であった。無自覚な表現だったとも言える。ただ優れた個性なり感性があったから、大人から評価された。物心が付くと、意図的な表現の世界に入って行った。しかしそれが中途半端なものだったので、裏目に出た。そこで文学者は、さらなる飛躍のためには、意図的なものを追求しなければならない、とアドバイスをした。

 意図や作為、技術やテクニックで完全武装されていて、しかも読む人には自然に受け入れて貰えるような表現が、理想的なのであろう。そういうことを身につけるためには、やはり書き手の個性、感性が大きく関わってくるのだろうが、それと同時に相当の精進も必要とされるに違いない。そして、これは文章に限らず、全ての表現活動について言えることだと思う。木工家具作りもしかり。



ーーー1/29ーーー 驚異の木工品

 
ときどき出掛ける映画館は、山形村の巨大なショッピングセンターの中にある。センターの入り口から映画館へ至る通路の途中に、海外の民芸品を売っている店がある。映画を見に行くときは、この店に立ち寄ることが多い。ほとんど買うことは無いが、珍妙な品物を見るだけでも楽しい。

 先日も映画を見に行った帰りに立ち寄った。例によって、怪しげな品物で埋め尽くされている店内には、いかにもエスニック風な香の匂いが立ちこめていた。

 ぐるっと店内を一周したら、今まで見たことのない品物に目が止まった。手の平で包めるほどの、小さな木工品である。一見しただけでは、何のために作られた物か分からない。ただ、極めて不思議な形をしているので、興味を引かれた。

 一つの木材から加工した、切り抜き細工のようなものである。切り抜かれた三つのピースから構成されているが、各々がリング状の部分で繋がっていて、分離することはできない。こういう一木作りの細工は、例えば鎖のような形をしたものなどは、現代の木工クラフト作品に見たことがある。しかし、そのようなものと比べて、この民芸品は実に複雑な形をしていた。

 手に取っていじり回しているうちに、この品物が小さな台座の形に組み立てられることが分かった。三つのピースを、正三角形になるようにして開くと、それぞれがもたれあって位置が決まり、三脚の形の台座となった。要するにこれは、携帯式の台座だったのである。

 何か宗教的な物体を載せる台座ではないかと思った。地面に直接置くことを憚られる物体を、この台座に載せるのではないか。しかも携帯に便利なように、折りたたみ式になっているところから察すると、巡礼の僧侶などが使う道具かも知れない。例えば托鉢の器を載せる台座とか。

 それはともかく、これは木工品として驚異の品物である。

 一つの木の塊から、このような機能を有する品物を作り出すのは、容易なことではない。この品物を見ながら、同じものを作れと言われても、その加工の複雑さから、絶望的な長さの時間を要するであろう。ましてや、品物の概念だけを伝えて、ゼロから考え、作り出すことを課題として与えたら、仮に高額な懸賞金を掛けたとしても、最後までやり遂げられる木工家が、何人いるだろうか。

 作りは荒削りである。いかにも手作業で作られた品物である。部材の先端には、犬の顔のような簡単な細工が施してある。反対の端には、脚のような彫り物がなされている。まるで子供が作るような、素朴で無邪気な雰囲気の品物である。しかし、その発想の斬新さと加工の巧みさ、そして立体造形感覚の秀逸さは、ため息が出るほど素晴らしい。

 私は異国の地のどんな人が、どのようにしてこの作品を作ったのか、思い描いた。そしてその優れた工芸家に敬意を表すべく、一度会う機会があればと、かなわぬ想像を巡らした。

 この品物を買い求めた。レジの若い女性は、無造作に「370円です」と言った。





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